富士宮と私と披露宴

2022年8月10日
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2022年8月10日 飯野悠美子

私の高校の友達は、富士宮に住んでいた人が多いです。

というよりも、富士宮にしか親友と呼べる友人はいませんでした。

まだ、1996年~1999年。富士宮のイオンモールもない時代です。

富士市にはパピーがあり、富士市で映画を観ることができました。

富士駅北の本町通りにはゲームセンターが複数あり、裏路地にはオシャレな店もたくさんありました。

 

富士宮の友達が多かった理由は、おそらく、そのころは、富士市より栄えていなかったからだと思います。新しい情報に猛烈に飢えていた人が富士市在住の人よりも多く、そのような人と気が合ったのだと思います。

私は、中学生の2、3年生ごろから東京に通い始めました。バブルの残り香がある1995年くらいからです。特に仲の良い友達2人も同じでした。

1人目は、ニッチなジャンルですが専門雑誌に取り上げられ、高校時代から東京で活躍し始めていました。ただただ、渋谷のシスコテクノ店でジャケ買いしていた私とは雲泥の差です。その友人は西新宿のレコード店。私は渋谷・原宿のファッションストリートにハマっていました。そのころは、渋谷系という音楽の影響もあり、ファッションと音楽の距離が、今よりもずっと近い位置にありました。ミュージックステーション等の音楽番組に出ていたアーティスト達のほとんどは、とてもダサいのに、少し探せば、こんなにオシャレな音楽があるんだ。文化や芸術から、私は知ることの喜びを得たと思います。

弊事務所の経営理念に付随する事務所のメンバーに求める資質の中にもちゃんと「ART」が入っています。

私は勉強が得意と思われがちですが、中学3年生まで「勉強」という概念がありませんでした。つまり、テスト前でも教科書を開かず、授業の記憶だけで解答をしていました。そのため、授業で扱った内容は正解し、教科書にしか書いていない内容は不正解でした。また、英語塾に通っており90点を取らないとクリアーできない単語テストを、テストを受ける前に勉強するという方法を知らなかったため、6回ほどテストを受け続け、テストを受ける過程で単語を覚えました。

 

2人目。当時の富士高はバイト禁止でした。私もバイトをしませんでした。今だから言えることですが、より深くファッションを探求するためにバイトをして青山のショップに出かけていく友達もいました。彼はチェロ奏者で、私と異なり、大学時代もジャズやクラシックのサークルに所属し、ベスパに乗っていました。今は日本の若手を代表する建築家です。

2人とも文化や芸術に高校時代から興味をもっていて、性格にも、余裕があり、ふところが深いところがあります。けれども、私を含めた3人は、外はフワフワだけど、中心には極めて硬い何かがあるような性格です。

その2人は、私の披露宴(2019年)にも出席してくれました。1人は列席者ではなく、音楽と映像を担当していただきました。もう1人は友人代表としてスピーチをしていただきました。また、司会進行も富士高の同級生のアナウンサーにお願いしました。途中、機材トラブルはありましたが、私の人生を象徴するような、心温まる披露宴だったと思います。

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