私とアート

2022年8月12日
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2022年8月12日 飯野悠美子

元々、中学生まで、私は漫画家になろうと思っていました。小学生のころの文集は既にどこかにいってしまいましたが、おそらく将来の夢は、漫画家と書いてあったと思います。最初にハマった漫画は「ドクタースランプ アラレちゃん」です。私の実家の斜め前は生まれたころ、小さなスーパーだったのですが、そのスーパーがなくなったテナントに、中古漫画屋さん兼クリーニング屋さんが入りました。歩いて10秒のところに中古漫画屋さんがあったのです。「まんがちゃん」という店名でした。中学生になり、学区外に出られるようになりました(私の地域では小学生が1人で学区の外に行くことが禁止されていました。)。そこで、しったのですが「まんがちゃん」は富士駅北口の本町通りを少し横に行った「半値堂(名前の記憶は曖昧)」という中古漫画屋の支店でした。そこで1日50円のお小遣いを3日貯めると150円で1冊アラレちゃんが買えました。最初の漫画がアラレちゃんでなければ、きっと私は漫画家になりたいと思っていなかったと思います。アラレちゃんの世界は、きちんと三次元で幸せな世界が広大に広がっていたのです。

漫画を描くのは好きだったのですが、自分の漫画はおもしろくない。漫画はストーリーが中心と気づき、私は、部活が忙しくなっていくとともに、漫画を描くこともなくなってしまいました。

アラレちゃんの作者の鳥山明先生は、とびきり絵が上手く、その世界観もオシャレでした。漫画の次に、私は実世界でオシャレに目覚めてしまいました。富士市の本町通り横のストリートは、静岡県でも随一のオシャレストリートでした。ファッション雑誌は、メンズレディース区別せず、ギャル系以外はほぼ全て読んでいました。そして、そのうちパリコレクションやミラノコレクションを追うようになり、それが一般的なファッションにどのような期間で影響し始めるかを肌で感じるようになりました。今はどうなっているかわかりませんが、レディースファッションに影響を与え、その後、半年遅れでメンズに影響を与えていました。そのことに気づいてから、メンズのファッション雑誌を読まなくなりました。1つ1つのブランドのアイテムを追っていくと、漫画と同様、ファッションデザイナーは1つの世界観をブランドの中で表現しているということが分かってきました。しかし、伝統的なハイファッションブランドは創業デザイナーではなく、デザイナーの変更があり、短期間で世界観が変化するため、きちんとした世界観が形成されず、あまり興味を持てませんでした。

そのころファッションと音楽の距離が非常に近く、パンクファッションがリバイバルした時期に、パンクロックのリバイバルもありました。私が15歳のころです。音楽雑誌で紹介されているCDが田舎のレコード屋やレンタル屋にあるはずもなく、sex pistolsだけ聞いていました。次にハマったのがテクノポップです、YMOのCDだけはレコード屋さんにそろっていたので、あるものは全て購入し、ずっと聴いていました。そこからYMOが影響を与えたアーティストを追い、今も、その流れで音楽を聴いています。大学生のころからは、その当時の彼女の影響からジャズを聴くようになりました。

テクノポップではなく、ダンスミュージックの方のテクノに興味が移行したころ、ファッションもテクノっぽいものが流行るようになりました。世の中は、小室ミュージック全盛期です。

本格的に、いわゆるアートに興味を持ったのは、大学に入って受講した一般教養の授業からです。今考えると、本当に豪華な授業を受けていたと思います。東京都現代美術館のキュレーターの方の講義と、現代芸術という熊倉敬聡先生の講義を受講していました。

正直に告白すると、きちんと大学で全ての講義を受けたのは、この2つと実験だけです。専門の必修科目はテスト一発で単位が取れるか決まるという過酷なもので、テスト一発なら教科書を読めば済んだので、ほぼ全く出席しませんでしたし、出席が必要な科目は、出席確認の紙を提出する方式で、友達に代わりに出しておいてもらいました。研究室に配属されるまで、正真正銘の不登校で、武蔵野美術大学に進学した友達とばかり遊んでいました。その友達は、大学で新人類代表の野々村文宏先生と仲良くしており、昭和の討論をする文化の影響を受けていて、多くの書籍を読み、議論や自分はどう考えているのか、どのような音楽やアートが好きかを語り、普通の東大生、慶應生よりもよほど教養がありました。浅田彰から柄谷行人まで、読んでいました。そのうち、その反動で、私は、理解できない難しすぎる書籍が読めなくなりました。「これはまだ自分には早い。」、そう思うようになったのです。

大学卒業後、私は何も考えずに無職になり、資格受験生を続けました。そのころ、その友人はムサビを中退し、サラリーマンになっていました。手取りで30万円ほどもらっていた友人は、そのほとんどをアートブックのコレクションにつぎ込んでいました。1冊30万円の書籍も購入していました(実家が本物の地主なので)。その当時は、めっちゃヤバい、としか思いませんでした。

しかし、その後、25歳になってしまった私は。「ヤバい。このままでは一生ニートだ。」と思い。大学院に実家から新幹線で通いました(運よく1年生の時に、公認会計士試験に合格しました。)。そのころ、富士市の中央図書館で額装された名画の印刷を貸し出していました。様々な絵画を自宅の部屋に飾るようになり、自分の絵画に対する好みがわかるようになってきました。例えば、印象派大嫌い、カンディンスキーやミロやピカソが大好き、という感じです。

その友人がその7、8年後クラブ兼アーティストのためのスペースを始めました。私はそのころ監査法人に入所し、そこそこの収入を得ていました。そこでのカオスラウンジの個展で、カオスラウンジではない作家さんの絵画を初めてお迎えしました。そのクラブを共同運営していたアーティストの初個展にも行き、「この絵ほしい!」という作品に出合いましたが、既に、そのアーティストのご家族が購入済みでした。「この作品欲しがるってモジャくん(そのころのあだ名)コレクターのセンスあるねぇ」と言われました。そのころはまだ、本当にコレクターになるとは思っていませんでした。

私は、アーティストとコミュニケーションをするのが好きです。その作品がある生活がしたいというのが第一ですが、付随して、アーティストとの絆も生まれます。アーティストは我々が考えている以上に深く物事を考えています。しかも、ビジネスマンとは全く異なる視点からです。

また、売れているアートが良いとは限りません。売れていなくても、私が一緒に生活したいと思うアートが、良いアートだと思っています。加えて、売れていないアーティストは良い作品を作っていてもバイトをしたりして、非常に苦労していることを、友人のアーティストを通じて知りました。けれども、売れているアーティストと何も変わらないのです。世の中が認めたかどうかという違いだけです。作品が売れたら、その分バイトをする時間も減らせますし、買いたい画材も買えるでしょう。そのため、私は若くて世に出ていないけれども「この絵と一緒に暮らしたい!」と思えるアーティストの作品だけを買っています。そして、そのうち(私の死後かもしれませんが)、絶対にこのアートの良さは、どこかの誰かに評価されるだろうという自信を持っています。しかし、私は、少なくとも私が生きているうちは、たとえ価格が億単位になろうとも、そのアートを手放しません。価格で買っていないからです。アートとは、そもそもそういうものだと思っています。一緒に暮らしてみて、新たな視点を与えてくれるもの、幸せな生活を提供してくれるもの、それがアートの本質だと思っています。

そのため、あまり好んで美術館には行きません。たくさんありすぎて、じっくり作品を観ることができないからです(特にパリのルーブル美術館とフィレンツェのウフィツィ美術館で感じました。でも、バルセロナのミロ美術館は良かったです。管理をしている方のミロへの愛を感じました。)。好んで行くのは小さい美術館が丸々インスタレーションとかそういうアートです(旧原美術館)。ビエンナーレとかトリエンナーレはお祭り感があって好きです(本物のお祭りはヤンキーが多いので嫌いです。)。

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